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「輪るピングドラム」考察  ピングドラムはどこから来るのか ~愛をめぐる問題~

 おそらく今期で最も奇矯かつ魅力的なアニメが「輪るピングドラム」であることは間違いないだろう。

 とはいえ、その奇矯さはあくまで映像表現において、そして時系列の緻密な操作による情報統制によってなされているのであって、終盤にもなれば物語の大枠は自然明らかになってくる。
 22話時点における問題は、何事かを遂行しようとする長兄冠馬とそれを止めようとする妹陽鞠及び真砂子にほぼ集約されており、そこに不確定要素として残った次兄晶馬と林檎がどう絡んでくるかが残りの話数で描かれるだろう。

 だがそのような具体的な論点より一つ上の次元での問題を12月3日付けの朝日新聞夕刊において評論家の藤津亮太氏が提起している。曰く、このアニメは愛を失った子供たちの生存戦略を描いており、ラストへの興味は誰が誰の愛を得てこの世界を生き残るか、であると。
 この問題提起は一見して正しいが、よくよく考えると本編と不整合なように思えてくる点もある。なぜなら、このアニメでクローズアップされている人物の動向はすでに、ピングドラム(桃果の日記帳)という愛の象徴の奪い合いからは逸れてきてしまっているからである(無論そのアイテムが最後で重要な役割を果たすという予想も難くはないが)。
 逆に、物語が進むほどに印象的になってくるのは、愛を奪い合うような営為よりもむしろ、愛を与えようとする営為ではないだろうか。冠馬晶馬の兄弟は陽鞠の命を救おうと躍起になり、真砂子も冠馬の愛を得ようとする一方で弟の命を救おうとする。多蕗は桃果を殺した加害者の家族である冠馬らを許そうと足掻き、林檎の目的にいたってはそもそも自分が桃果に成り代わることで家族に愛を与えることだ。この物語の登場人物は誰も彼もが、自分には与えられていない愛を他人に与えることでその代償行為としようとしているようにすら見える。だが残酷にも、未だかつて、この物語において愛を与えることに成功したのはすでに死した桃果ただひとりだった。だからこそ、桃香というキャラクターの特殊性は際立ち、その日記帳がキーアイテムとなるのだ。

 皆が皆、愛を与えようとして生きている。
 だが、愛を与えられていない者が他者に愛を与えることは本当に可能なのだろうか。
 愛とは再生産され、限られたものにしか与えられないものなのだろうか。
 それとも泉のように自然湧き出で、誰もを潤すものなのだろうか。
 果たして生き残るためには生存戦略をもって愛のサバイバルに挑むしかないのか。
 「輪るピングドラム」の全体を見渡したとき、このアニメは、愛の行方をというよりはむしろ、愛の来たりし所を問うているようにも見えるのである。
 
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テーマ : 輪るピングドラム
ジャンル : アニメ・コミック

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