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ライトノベルの文章にまつわる随想

 まだライトノベルがジュブナイルポルノとかヤングアダルトとか呼ばれていた時代にあかほりさとるという作家がいて、書いて、書いて、書きまくった。同時に彼は改行をしまくった。その凄まじさたるや「ページの下半分はメモ帳に使える」と言われたほどだ。だからライトノベルがその他の小説に比べて圧倒的に改行が多い文章で書かれているのはそれなりに歴史というか経緯があることなのだ。改行を多くすれば目に優しく、読むのが楽に感じられ、噛んで含めるように丁寧に読者を導くことができる。若年層への訴求力をもとめるライトノベルがそのような文章になっていったのは必然性のあることだった。
 だが別の流れもあった。ライトノベルの源流は決してひとつではないが、その中にSFや硬派なファンタジーというものもおそらく含まれる。SFでは早川書房の翻訳物はもちろん国内作家の作品からも様々なアイデアやガジェットがライトノベルへと取り込まれたし、ファンタジーといえばの御大田中芳樹や栗本薫がライトノベルに影響を与えなかったと想像することのほうがむずかしいだろう。当然それらに影響を受けたライトノベルは文章もそれに近いものにならざるを得ない。「何を書くか」と「どのように書くか」はどうしてなかなか分かちがたく結びついており、語彙や語法を若年層向けにアレンジしたとしてもそれは先のあかほりさとるの文章とは似てもつかないものだった。改行は少なく、台詞もすくなく、一文一文がやや硬い印象を与える文章でしか、SFやファンタジーは説得力を持てなかったのだ。
 少なくともその成熟段階において、ライトノベルはさまざまなジャンルの混血児だった。そこにはコメディがあり、SFがあり、ファンタジーがあり、またゲームライターも書き手として少なくなかった。だから必然的にライトノベルは物語や人物といった「書かれる対象」だけでなく「いかにして書くか」という文章の面でも混血児として生まれ育ってきた。ある作家が世に出るまでは。
 西尾維新をしてライトノベル作家と呼ぶには批判的な向きもあるだろうが、彼のデビュー作である「戯言シリーズ」がアニメ調のイラストで装丁されていたのは事実であるし、読者も若年層が圧倒的だった。そんな彼の文章はあかほりさとるほどではないにしろ改行が多かった。当時は新書の形で刊行され2段組になっていたためそう目立ちはしなかったが、彼がその文章で用いたのは自身が強調したい刺激的な文を改行の後で短く端的に表示し、読者に直接突きつけることによってそれを紛れも無い事実であるかのように思わせるというものだった。前述のSFやファンタジーでは言葉を重ね文章を重ねることによって作者と読者の間に作り上げていた「事実」を、西尾維新はごく単純な言葉の押し付けによって「事実」にしてしまったのである。もちろんこの手法は彼だけのものではないが、世に出るや否や時代の寵児となった彼の影響はあまりに大きかった。
 そしてもう一つの要因が重なった。さまざまなジャンルのごた混ぜであったはずのライトノベルは、いつしかその客層からの要求によって段々とひとつの形を成すようになり、「ライトノベルらしさ」とでもいうべきものがおぼろげながら出来上がっていったのである。この「ライトノベルらしさ」は「お約束」と言い換えることもできる。つまり作者と読者の間に説明不要の前提が形成されてきたのだ。
 これですべての条件は整った。若年層への訴求力を必要とするライトノベルが、説明不要の前提を共有する読者環境に置かれ、なおかつ刺激的な文を直接「事実」として読者に叩きつける事ができる西尾維新的な手法を手に入れれば、それを使わないわけはないのだ。かくしてライトノベルはライトノベルらしさを獲得しそれを簡単に表現できるようになった一方、文章を重ね一文一文の連なりを重視することはなくなった。それは小説というよりも漫画的といったほうがわかりやすいかもしれない。ライトノベルは小説なのか? こう聞かれた時何の後ろめたさもなくイエスと言うことは、僕にはできない。

 もう一つ。時制と視点の切り替えという問題を捨て置くことはできまい。改行と同時に現在のライトノベルを象徴する文章的特徴がこの時制と視点の切り替えの多用だ。これについては鏑矢として「ブギーポップは笑わない」を挙げることができる。僕がはじめてこの小説を読んだのはたしか中学生の時だったが、最初は比喩でもなんでもなく、読むことが出来なかった。場面があまりに頻繁に切り替わるので頭がついていかなかったのだ。それはそれまで僕が読んできた小説とはあまりにも違っていた。
 時制と視点の切り替えの多用は今も多くのライトノベルにあてはまる。だがそれは、物語を効果的に見せるためというよりは筆者の書きやすさを優先したためであるように僕には思える。さらにごく最近読んだ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の11巻はなかなかに酷かった。主人公が過去の話を語る場面の語り手、つまり地の文が現在の主人公と過去の主人公とでごっちゃになってしまったいるのである。こうなってしまうともうこの小説の本当の語り手が誰かという根本的なところにまで疑問をもってしまう。いや、そんな些細なことはどうでもよく、要は物語上であったことがわかればそれでいいと人は言うかもしれない。だが単に作者の考えた物語を伝えるだけなら、単に作者の想像を事実だと言い切るだけなら、果たしてそれは小説なのだろうか。そこにはもっと繊細な作者と読者の間の交感があるべきなのではないだろうか。

 僕はライトノベルが好きだ。その舞台が好きだし、登場人物が好きだし、ライトノベルが持つ可能性が好きだ。だからこそ、それらを存分に表現するためにこそ、ライトノベルに「小説」であって欲しいと思う。
 
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テーマ : ライトノベル
ジャンル : 小説・文学

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